石島小夏のカラフルノート

カラフルノートで“思考”を可視化して、自分と向き合う&相手に伝える…!

意志あるところに逃げ道は開けん!!

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毎朝(実際は週5くらい)、ノートに3ページただ頭の中に浮かんだ事をそのまま描き出すということをしています。
普段は結構ちゃんとした言葉になっているのですが、今日のノートは半分くらい擬態語でした。

ぼけ〜 ぬぼー、にょーん、みゅーみゅー
うーん、何も考えたくない
ほわほわ ゆらゆら ぐーぐー ねむい
あ、意識がゆらいでいく みょーん
ゆーらゆら ぼーっ ふわぁ〜


こんなにぼや〜っとしているのは、旅疲れもあるんですが、娘ちゃんが毎日一緒に帰っている保育園のお友達が来週引っ越すという急な知らせを受けて呆然としているからかもなぁ。
娘ちゃんは常にそのお友達のお話をするくらい大好きで、時々夕ご飯をご一緒させて頂くこともあって、私もその母娘さんと毎日一緒に帰るのが日課だったので、とっても寂しいです。
他にもびっくりする事があり、なんだかこの一週間は楽しいことも哀しいこともたくさんあったなぁ。
だから、ちょっとぼけ〜ぼけ〜…


先日、こちらの記事
で、産後や家族が他界した時は、「意識と無意識の間を彷徨いながら必死で意識を保とうとしている感じ。」といったような事を書きました。
でも、今日の朝、ノートによくわからない擬態語を並べていたら意識を保とうとしなくてもいいのかも知れないなぁ、なんて事がふと頭に浮かんできました。


ちょっと怖いけど、勇気を出してしんどさ哀しみに身を委ねてしまうのも一つの手かも知れない。
意識を手放す感じ。
そのまま、眠りに落ちても、涙を落としても、1日くらい仕事を休んで布団にくるまっていても失うものはないのかも知れない


そういう意味では、母が他界した時にはたくさん泣きました。
2週間くらいは本当に脳みそが非常事態厳戒態勢モードで、いつもよりも冴えてるくらいテキパキ動けてしまったけど、弔休が明けて栃木から東京へ戻ってきたら、ぼーっと涙を流す事が多かった。


この経験があったから産後も逃げ道を確保して乗り切ることができたのだと思う。
たまたま同時期に出産した友人たちや、産後のバランスボールクラスで新しくできた友人たち、子育て勉強会で出会った友人たち。
想いを共有できる人たちが本当にたくさんいた。


私自身の感覚としては、家族が他界した時や闘病している時よりも産後の方が、まだ仲間を作りやすい。
それでも、逃げ道がなくてしんどくなってしまう人が多い。
どうか、自分がしっかりしなきゃ!!という気持ちを勇気を出して手放して、逃げ道を確保して欲しいと思う。


弱い自分は認めたくないし、私だって本当は自分でしっかりと向き合いたい。
でも、多くの人に助けて貰っていると、自然と次の人を助ける機会が巡ってくる気がしています。
自分を助けてくれた人を直接助けるんじゃなくてもいいから、人の逃げ道となれる機会がやってきたら全力でその人を逃してあげたい。


そして、大切な人が他界した時も、他にも各々に大変な時もぼーっと弱音を吐ける場所を意図的に確保して欲しいなぁ。
意識を手放す場所を、意志をもって作り出すのです
それだけで、自分も自分を大切に思ってくれている周りの人たちも救うことができるかも知れない。


「意志あるとこに道は開けん!!」って言うじゃないですか。
逃げ道だって、道は道なのです。
むしろ、自分を守るとっても大切な道なのです。
逃げ道は後ろ向きな道なのではなく、前向きな道なんじゃないかなぁ。



母が他界した時、私には逃げ道がたくさんあった。
親友と当時付き合っていた彼氏くん(今の夫)は葬儀に駆けつけてくれて、私を見守ってくれていた。
東京へ戻った私を心配して彼氏くん(今の夫)はどんなに仕事が遅くなっても私を独りにしないように毎晩我が家に来てくれていた。
私は母が闘病中も一人では気持ちを抱えきれずに友人たちに駆け込み寺になって貰っていたので、訃報を知らせると我が家や職場に会いに来てくれる友人たちもいた。


涙が溢れてどうしようも無いときは父にも電話した。
実は父にうまく甘えたり、相談したりできるようになったのは母が他界してからです。
昔は自立しなきゃ!という想いが強すぎて親に弱いところを見せるのが嫌でした。
心配をかけたくなかった。

でも、弱いところを見せようが見せまいが親はこどもの心配はするものなんですよね。
で、その心配は標準装備だからこどもが気にしなくてもいいというか、言い方は悪いですが親は勝手に心配してるんだから、そこに応えて心配しないですむ子になる必要なんて無い
そんな風に考えられるようになりました。


ある意味、父と私の間では本当の意味での親離れ子離れができたんじゃないかなぁ。
僭越ながら親子というより一人の人と人という感じで話せるようになってきたと感じています。
もちろんたくさん心配して貰っていると思うし、私は父の事を父として尊敬しています。
でも、遠慮はしなくなったかな。
できる時にできる限りで助けてね〜という感じで接する事ができるようになってきている。


余談ですが、私と父の関係がそんな感じなので夫と私の父の関係も程よく保たれている気がします。
私が言うのもおこがましいのですが、石島小夏を大切にしている同志って感じ。
二人とも心配しながら支えてくれて見守ってくれているけど、必要以上に干渉したり心配したりせずに放っておいてくれる。
まー、二人とも小夏は言い出したら聞かないし、やってみて失敗しないと納得しないってもうわかってるから、無駄な口出しはしないだけかも知れませんね(笑)


と、話は逸れましたが、人の訃報に触れた際に母の事に想いを馳せるのは5年以上経っても変わりませんなぁ。
生前、闘病中にうまく向き合えない自分をたくさん責めたけど、それだけ母を大切に想っていたのかも知れないなぁ。
まだまだ、母の事で至らなかった自分と向き合っている途中のようです。


涙が止まらない時に、「どーして私はこんなに弱いんだろう。泣き虫なんだろう」と悩んでいたら、父から

涙が止まらないくらいでいいんじゃない
しばらく思い出して泣いてあげるくらいの方がお母さんも嬉しいかもよ

といったような事を言われました。
至らない自分と数年かけて向き合うくらいで丁度いいのかも知れません。