「努力をやめる」努力をやめて、ちょうどよく歩く◎
石橋を叩きながら全方向を見回して、
次のはどの橋を渡るか、
次の橋はどうやって渡ったらいいか考えながら、
この速さじゃ間に合わない!と焦りながら、
「他人と比べて」同じくらいか、
「他人より」速いくらいで橋を渡る。
私の日々を例えるとこんな感じでした。
だから、どうしても疲れるし、しんどい状態がずっと続く。
一歩、一歩ちょうど良い速さで歩く。
それができるようになったら、
周りの景色は自然と目に入ってきて、
辿り着いた先には次の橋が目に入り、
次の橋も一歩一歩進めばいいだけで、
心地いい速さだから、気楽な気持ちで
「自分にとって」ほどよい速さで橋を渡ることができる。
「自分を変えたい!」って思ったからたくさん本を読んだし、いろんな事をやってみて試行錯誤を繰り返していました。
だから、「一歩、一歩ちょうど良い速さで歩く。」ということが大切で自分に足りないものだという事は頭では理解していた(つもり)。
でも、どうやって「ちょうど良い速さで歩いたらいいか?」がわからなくて、結局もがいていた。
喜多尾浩代さんに出会って、身体と心(思考の癖)を引き出して頂きながら「どうやったら一歩、一歩ちょうど良い速さで歩けるのか。」を丁寧に伝えて頂いています。
ダンサーであり医学博士でもある喜多尾さんの「身体事」というセッションに出会ったのは、ママ友のSNSの投稿がきっかけでした。
彼女の文章を読んでいた時に、ある方のピアノが頭の中に流れ、導かれるように喜多尾さんのページにお邪魔したら、「共通の友人」にそのピアニストの方がいらっしゃって本当に驚きました!!
で、勝手に運命を感じて(笑)、セッションをお願いしたのですが「自分の身体のことをこんなに知らなかったのか」、「こんなに動いていない部分があったのか」と発見の連続で、1時間半が過ぎる頃には視界が(物理的に)広く、明るくなって感動しました。
今回のセッションでは、
「一歩、一歩ちょうど良い速さで歩く。」ためには何をしたらいいのか?
を、考えて努力するのをやめたらいいのだ。
と言うことに気付きました。
喜多尾さんから、
小夏さんは頭がいいし、いろんなことを知っているから、
それを駆使して、「答え」を導き出したり、「解決」しようとしたり、
一生懸命、頑張ってしまう
もっと「答えのない中」に答えがあるかも知れないし、
「解決」しようとしなくても、時が解決してくれるかも知れないよ
自分の枠の中にないものには、怖くて身を委ねられなくて
自分の知っている方向に、無理やり行こうとしている
その状態にとどまって、意味を持たせようとしないで、
最後まで方向を決めつけずに、見届けて
こういった事を、身体を動かしながら、
「ほら、こっちに腕が行こうとしている。
頭では自然に考えているつもりになっているけど、意識していないようで“考えて”動いてしまっているんだよ。
こっちの方向って無理やり決めつけずに、最後まで見届けて腕を戻して。
うん、今の動き。そう、その感じ。」
なんて事を言われつつ、伝えて頂く。
整体でもなく、カウンセリングでもなく、「正しい方向」みたいなのはなく、でも「自然な状態はここだよー」と引き出してくださる不思議な時間でした。
私は「一歩、一歩ちょうど良い速さで歩く。」のが必要だ!!と、それが私にとっての「答え」であり、「解決策」なのだと決め付けて、そちらの方向に向かっていく努力(その方法を探したり、行き先を探したり)をしてしまっていたんですよね。
で、そうやって努力してしまうから、やっぱり石橋を叩きながら、全方向を見回しながら…状態になってしまって、しんどくなってしまって、うまくいかない。
で、うまくいかないから「努力が足りない!!」とか、「自分がダメだ。。。」とか責めてしまって、またしても状況が悪化していく渦の中に落ちていく。。。
そんなことを思って、ケーキを食べたらお腹がいっぱいになりました!笑
いつもは食べても、「もっと食べたい!」って思ってしまうのに。
袋を開けたお菓子も途中で、「もういいや」って食べる気が無くなりました。
いつもは袋を開けたら「最後まで食べ尽くして」しまうのに。
ややこしいけど、「努力をやめる」努力を今までしてしまっていたんだなぁ。
なんじゃそりゃ?って感じですが、私には上手に「努力をやめる」ことができていなかったのです。
うまくいっている時もあったけど、行っていない時には「まだまだだ!!」って自分を責めてしまって、でも「そうやって自分を責めるからダメなんだ」と自分を責めている自分をまた責めてしまう。。。みたいな?苦笑
「自分を責めている自分」を責めるのではなく、でも無理に受け入れようとするのではなく、「見守っていけばいい」んですね。
「ありのままの自分」というのは、「変わらないで、その状態でいい」というわけでなく、「努力したり、間違った方向に行ったりしても見守る覚悟を持って、自分の変わりたい方向へ進んでいくこと」なのかも知れないなぁ。
「努力をするための努力」も「努力をやめる努力」もする必要はなくて、「単に努力」すればいいだけ。
そして、人間にはやりたい事を努力する才能が備わっているから、「単に努力する」のはしんどくないのかも知れない。
喜多尾さんに「最後まで見届けて」と言われた時に、ふと腕の中で動き回る娘を落とさないようにしているイメージが頭に浮かび、その後、身体の動きを見届けられるようになりました。
彼女の自主性を認めながら、自由に動く姿を見守りつつ、でも命は落とさないように包み込む、そんなイメージ。
そういえば、娘がギャーギャー騒いだり、大泣きしている時に「気が済んだら落ち着くでしょ」って娘を放っておいて眺めたり、よしよししたりしているんですが、
最近は、自分がイライラしたり、涙が出たりする時も、同じように自分を放っておいたり、よしよしって気持ちになってみたり、そんな接し方をしています。
そしてら、今まですごーくしんどかった「イライラしている状態」や「涙が出る状態」も「なんでもないもの」として、受け入れられるようになりました。
娘と過ごす事で、自分で「自然な状態」へ近づく事が少しずつできるようになってきました。
でも、30年間こじらせて歪んだ方向に凝り固まってしまったしまった癖を、少しずつ自然な形に戻すには10年はかかるんじゃないかなぁ、と感じております。
だから、時々、他の人に「今の状態」を教えて頂く。
喜多尾さんと過ごす時間は私にとって、とても大切なものとなっています。
いつもありがとうございます。