相手を想う気持ちと方法論
娘ちゃん2歳4ヶ月。
ねんね するー?
だでぃのうえで いっしょに ねよっか
きもちいいね〜
おかぁさん にこにこーは?
なんと すてきな すばらしい おかぁさんでしょう!!
私が、「お母さん、疲れたな〜」とこぼしたら、夫くんの膝枕で娘ちゃんと二人でゴロゴロすることを提案してくれました。
なんですか、この完璧過ぎる癒しの時間は!!
娘ちゃん、本当に天使なんじゃないの??笑
論理でしっかり納得したいんですね。
問題意識を言語化できるのがすごい。
最近、別の方にそれぞれ言われたこの言葉たち。
なんだか、「論理的だね」と言われることが増えてきた今日この頃。
でもねー、なんか論理的って「冷たい」響きを持ってしまうのはなんでだろう?
たぶん論理は方法に過ぎなくて、論理的と言われると「方法にこだわっている」ような気がしてしまうからなのかなぁ…。
確かに私は本を読んだりして、論理として「わかった!」と納得する瞬間が大好きです。
でも、その「本を読む」という行為の前には、モヤモヤして悩んでいることがあったり、向上したい事があったり、日々の実践の中で自分の中の論理が出来上がる途中だったり、そういう状態が先にあって、そこから本を読んで頭の中を整理していくのです。
だから、以前に同じ思いや問題を抱えて本を書いた人を通して、問題意識を言語化しているんですよね。
で、問題意識を言語化できると方法論が見えてくる。
だから、あとはどうにかこうにか、その方法を実行にうつしていく感じ。
ただ、方法論に夢中になってしまって本来の目的(改善したいこと)を忘れてしまうことがある。
そういう時は、「方法にこだわっている」状態になってしまっている。
そんな自分の残念な状態を指摘されている気がしてしまって、「論理的」という言葉を素直に受け止められなかったのかも知れません。
そもそも「方法を探した」のは解決したい問題や悩みがあったから。
そこに集中するようになったら、方法は方法として捉えられるようになってきました。
で、「論理的」という言葉も、素直に受け止められるようになってきました。
人間関係の問題やコミュニケーションも同じ。
私は相手の発言を聞きながら、状況を観察し、背景に思いを巡らし、最適な回答はなんだろー?と考える癖があります。
これは私の性格に由来するものでもあるし、接客業をずっとやってきた中で培ってきた力でもある。
けど、人間を型に当てはめることや、人間関係を方法論に当てはめることには抵抗がずっとあった。
例えば、お客様とお話をしていると、「あ、この方にはこういう提案が受ける」と感じる瞬間がある。
それは、その方の雰囲気や発言や話し方から「これ!」とひらめくのですが、そうやって計算で導き出した提案をして物を売っている自分が昔は嫌でした。
お客様は「よくわかってくれたね!!」って、感動してくださるのですが、その反応まで読めていた自分が、なんか冷たいような気がしてしまって、後ろめたい気分になったのです。
まー、でも接客業を10年も続けていると、「売るための提案」では物は売れなくて、「相手を想っての提案」だと物は売れるということもわかってきました。
(それから「売れる!」と信じていると売れたりする。)
「相手を想って」、相手を観察して、話をよく聞いた結果の提案なら、例えそこに計算が入っていたとしても、そこに愛情があるからいいんじゃないの?
と、やっと思えるようになりました。
最近、産後ドゥーラの養成講座を受けていて、様々な方法を学ぶ機会に恵まれています。
でも、結局、大切なのは方法じゃないんですよね。
いや、方法は大切なんだけど、もっと大切なのは「方法を使うことによって何を実現したいか」であって、「相手を想う気持ち」なんだろうなぁ。
そして、「方法を試す」という行為の中には、その時点で既に「相手を想う気持ち」が含まれていると思うんですよね。
だから、その方法に夢中になって「相手を想う気持ち」を見失わないように気をつけたらいいのかもしれません。
うっかり、見失っちゃうんですけどねー苦笑
で、何か相手に伝えたいことがあるときは、「言葉」より「自分が実践してみせること」が一番響くんでしょうねぇ。
その時も、やっぱり「相手を想う気持ち」が根底になくては響かないんだろうなぁ。
私は、「相手を想う気持ち」を持てるように、まずは「自分を想う気持ち」を育まないとなー!笑