【小夏の生い立ち】第8話 メラメラと青い炎が燃えている…!(23歳-26歳)
どーしてもやりたいなら、私が死んでからにして欲しい。
飲食店で働かせるために慶應まで行かせたわけじゃない。
新卒で入社した会社を辞めて、学生時代にアルバイトしていた飲食店で働きたい!
そう伝えた時、母は猛反対しました。
そりゃ、そうですよね。
多くの親が反対する状況だと思います。
しかも、当時、母は末期ガンの告知を受けたばかりでした。
そんな時に、なんてことを言い出すんだ…!!
という、親の気持ちも今ならわかります。
自分が、生き続けることができる可能性が低い。
そんな状態で大きく心を乱すようなことはして欲しくないですよね。
そして、やはり親としてはこどもには安定して欲しい…という気持ちが強かったのだと思います。
それでも!!「飲食店で働かせるために慶應まで行かせたわけじゃない」という言葉は衝撃でした。
だって、高校生の時に「大学へ行きたい」という私に、
本当は高校を出たら働いてくれた方が楽なんだけど。
と、言ったのは母だったのです。
だから、大学の学費と生活費も可能な限り、奨学金とバイト代でまかなっていたつもりでした。
大学へ行くのは自分で決めたことなので、自分で全部やらなきゃ…と、学生時代はもがいていたのです。
もちろん、親にかけた迷惑も、足りなくて親が払ってくれた分もありました。
だから、感謝もしていましたし、自分が至らなかったという負い目もありました。
それでも、金銭的には半分以上は自分で負担していたので、「大学に行かせてもらった」とは素直に思えませんでした。
母には金銭的な部分以外にたくさんケアしてもらって、書類作業などもしてもらっていたので、「行かせてもらった」のだと今は感じていますけどね。
就職活動も迷走して、最終的には上場したてのベンチャー企業(当時100人くらい)の会社へ。
慶應を出たにも関わらず大企業で働いていない自分に対して、引け目のようなものが、自分の中にもありました。
だからこそ、私は母に背中を押して欲しかったのです。
小さい頃から、「みんなと一緒じゃなくてもいい」と教えてくれていた母。
だから、「みんなと違う選択」も認めてくれるはず…!!
そう信じていたから、一般的にはありえない決断でも正直に母に伝えました。
今だったら、病気の話を聞いたばかりの母のことを考えて、少し待つこともできたと思います。
でも、当時の私は生き急いでいました。
そして、母の病気の重さもわかっていなかったのです。
いいえ。わかっていて、でも自分を守るために見ないふりをしていました。
でも、それが逃げだとも感じていて、弱い自分を責めてもいました。
それでも、母が他界するまで、向き合うことが、どうしてもできなかった。
「母が死へ向かっている」って私が思ったら、本当に死んでしまうような気がしていて、そう思うことを避けていました。
そんな私を見て、父はこう言いました。
母がどんな状態かわかっているのか??
そんなにやりたいなら、母にバレないようにやりなさい。
両親に転職を反対された後、めちゃくちゃいろんなことをノートに書きました。
私の幸せ、母の幸せ、父の幸せ。
その間の葛藤。。。
書いて書いて書いて、出た結論は…
反対されてもやりたい!!
いつかは母もわかってくれるはず。
まずは、自分が次の仕事を通して“幸せ”になればいいのだ。
母には隠れて、「えいや!!」と転職をしました。
ところが、この時の決断を、この後、何度も何度も何度も後悔することになります。
そう、嘘はついてはいけないのです。
どんなに傷つけても、母にちゃんと伝えてから転職するべきでした。
私の「本心」もそう言っていたのに、周りの声に頼ってしまっていた。
折角、大好きな会社で働いているはずなのに、なんだか上手に日々を過ごせない。
アルバイトから「店長」という責任ある立場になったプレッシャーもありました。
必死でもがいて仕事をして、でも、うまくいかなくて、苦しくて、苦しくて…。
母の反対を押し切ってやっているんだから、認められるような成果を出さないと!!と躍起になっていた。
そして、ある日、心がポキっと折れてしまいました。
起きるのが嫌。
仕事に行くのが嫌。
電車に乗ると息苦しくなる。
親からの連絡も嫌。
心配されたくない。
人に会いたくない。
とにかく、あったかい場所でぼーっとしていたい。
休みたい、ゆっくりしたい。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
・・・・・。
・・・・・。
・・・・・。
そんな状態で、私は仕事を休むことになります。
吹っ切れるまで時間はかかりましたが、 この経験が私の人生を大きく変えました。
今では、最初の転職が自分を支えてくれていると言っても過言ではありません。
仕事を休んで何者でもない状態。
そんな私をそのまま受け入れてくれた方々がいました。
高校時代、大学時代の友人たちだけでなく、職場のスタッフもお客様たちも、みんなで見守ってくださった。
そこでようやく、私の優等生プライドが消えたのです。
「良い子でいなきゃ!」 呪縛から大きく解放されました。
成績や学歴で判断されるのが大嫌いだったのは、自分にはそれしかない(と、思い込んでいた)のが、怖かったから。
それ以外の“何か”が欲しくて必死で世界を広げた大学時代。
ベンチャー企業に惹かれたのも“何か”に挑戦したかったから。
でも、私は自分が持っているものに気づかなかっただけなのです。
何にもない状態でも自分に残っているもの。
それに気づいた時、
あ、もう頑張らなくていいんだ。
無理に挑戦しなくていいんだ。
やっと、そんな気持ちになることができました。
そして、少しずつ外へ出られるようになりました。
母にもやっと本当のことを話すことができました。
ゆっくりそのことについて触れることはできなかったけど、嘘が無くなったら心も軽くなりました。
実はこの時、栃木で母の側で仕事をすることも考えました。
でも母は、
無理に栃木に帰ってきても、あなたがしんどくなるだけじゃない?
私は、側にいてくれなくても別に大丈夫よ。
と、言ってくれました。
もしかしたら、この時、「弱っていく母と向き合う強さは私にはない」と母は見抜いていたのかも知れません。(そういえば、最期の時も私を待ってはくれませんでした。)
だから、私は「月に1回は栃木の実家に帰れるような働き方をしよう!」と心に決めました。
退職のご連絡を差し上げたら、お店のお客様が何人もお仕事を紹介してくださいました。
苦しんでいただけ…だと感じていた仕事の中にも、“何か”はあったのです。
経営者の皆様の日々の人材探し力は凄まじいですね…!
意外なところから飛んできた求人に、応募してみたらご縁を頂く運びになりました。
母も名前を知っている会社で、私の好きな接客もできる。
基本は残業もなく人間らしい働き方ができる会社。
大きくはない外資系企業で、百貨店にて働くことになりました。
振り返ってみると、この時期は心の中にメラメラと青い炎が燃えている時期でした。
渦中の時は、しんどくて苦しかっただけなはずなのに、外からだと、じんわり熱くて青い、そんな光が見えるのです。
【年末年始ブログ特集“小夏の生い立ち”全11話】
明日は第8話を公開予定です。
第6話 強く!聡く!美(うるわ)しく!一匹狼女の群れの中で♪(16-18歳)*前編*
第6話 強く!聡く!美(うるわ)しく!一匹狼女の群れの中で♪(16-18歳)*後編*
第7話 好奇心旺盛で寂しがり屋の小娘、家を出る(19-22歳)*前編*
第7話 好奇心旺盛で寂しがり屋の小娘、家を出る(19-22歳)*後編*
第8話 メラメラと青い炎が燃えている…!(23歳-26歳)←★今日ここ★
第10話 家族に必要なことはみんなお店が教えてくれた(29-30歳)
*タイトルは予告なく変更する場合がございます。
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