石島小夏のカラフルノート

カラフルノートで“思考”を可視化して、自分と向き合う&相手に伝える…!

私の3・11

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今日は3月11日ですね。

被災して亡くなられた方々のご冥福を心より、本当に心よりお祈りし、今なお復興中の被災された皆様にお見舞い申し上げます。

 

 

私の3・11は母の最期の1ヶ月の記憶。

だんだん、曖昧になっていくあの時の気持ちを少し綴ってみようと思います。

 

恥ずかしながら、当時は母が一瞬にしておばぁちゃんになってしまった衝撃でくらくらしていて、震災に想いを馳せることもままならない状態でした。

何人ものご家族を亡くされている方がいらっしゃるのに、たった一人のまだ生きている母を前に絶望しているなんて…申し訳ない気持ちもたくさん生まれました。

 

 

実家のある益子町の家々も青いブルーシートに覆われていたし、実家への交通手段もいつもの電車は運休していて遠回りでしか帰れなかった。

震災から6日後、母が病院を退院するというので会いに行って、そこで痩せ細った自分ではもう起き上がることのできない母に対面しました。

2月頭にあった時は、まだ歩いていたのに…!!

 

 

おばぁちゃんになっちゃったみたい

 

自分のことをそう表現する母を前にして、私は涙が止まらず、でも、その涙を気付かれないように「花粉症がひどくて…」とバレバレの言い訳をしました。

きっと、母は気付いていただろうし、私も強がらずにあの時、母の前で思いっきり泣けば良かった。

でも、一番辛いであろう母の前で泣いてしまうことはしてはいけない!と気張っていたのです。

 

 

母の変わり果てた姿に、どうして良いかわからず、私は職場に電話を掛けました。

当時の店長の声を聞いた途端、現実に引き戻されて、涙がボロボロ出て泣きじゃくりました。

 

 

すみません、よくわからないんですが、もう一日お休み頂けますか?

○日の私のお休みを明日お休みのAさんと替えてもらえないかご相談したくて…

 

なんだかもう一日母の側に居たくて、シフト表を手に電話を掛けたのです。

必死で休む方法を伝えようとする私に、店長はこう言ってくれました。

 

お母さんの側に居てあげてください。

休み方なんて気にしないで、そういう時のために店長がいるんです。

 

店長の言葉に余計に涙が出ました。

「仕事をしていて、受け止めてくれる人がいて本当に良かった」と心から思いました。

 

 

それから1ヶ月弱。

職場の皆様が快く、毎週連休というシフト組に協力してくださり、益子へ通いました。

東北ほどの被害はなかったけれども震度6前後の被災をした栃木県と震災から1週間で既に日常を取り戻した東京の対比は、まるで映画の中と外を行ったり来たりしているような不思議な感覚でした。

 

この1ヶ月間、私はずーっとふわふわしていました。

それでも行くべき職場があって、職場の皆様が暖かく迎えてくださることで、私は日常をどうにか保つ事ができていました。

仕事が原因で苦しくなった時は家族が支えてくれるけど、家族が原因で苦しくなった時は仕事が支えてくれるんだなぁ…そんなことを思いました。

 

あの東日本全体が非日常で包まれていた時。

私は生と死の狭間を行ったり来たりしながら、日常と非日常を行ったり来たりしながら、

気を緩ませたら、涙がずーっと出てきてしまいそうな、

そんな状態で日々の中を漂っていました。

 

 

あれから6年。

震災のような大きな哀しみはもちろんですが、日々の何気ない(ように見える)日常の中にも、深い哀しみは存在すると気付くようになりました。

ご自身やご家族の病気や障がい、妊娠・出産・産後、学校や仕事でのストレス、親子関係にはじまる人間関係…ありとあらゆる非日常が人の日常の中には隠されている。

 

日常と非日常を行ったり来たりする浮遊感。

あのふわふわとした状態の方々に気付いた時、私はそっと寄り添える人間でありたい。

3・11の前後で多くの人が私にくれたものを少しずつお返しして生きていく。

そんな日常を送っていこうと思っています。